国指定特別史跡 新居関所

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井上通女について知る

父・本固に英才教育を受け、和歌や漢詩、漢文を学んだ。
『素直さと真面目さ』という父の教えを貫き通し、
これに恵まれた資質が相乗して若いながらにも
その名を江戸にまで轟かせていた。

16歳の時
『処女賦』…未婚女性の心得
『深閨銘』…既婚女性としての自戒の文

を著書。
これが評価され22歳の時、江戸へ奥女中として招かれる。


井上通女旅の道中(その2)

丸亀より江戸へ下る際の旅のあらすじ

天和元年1681.11月
   船で難波へ向かう。

同16日(第一日目)
   牛の刻(12時)を過ぎた頃には乗船
   子の刻(24時)に室津(相生市)に到着。

同17日(第2日目)
   室津出港。

同18日(第3日目)
同19日(第4日目)
   兵庫を出発して牛の刻 難波(大阪港)に入る。
   今切と箱根関所の手形発行を受けるために2日滞在。

同廿日(弟5日目)
   未の刻(14時)に川船に乗船し、淀まで上った後は奥にて陸路を鳥羽街道の『恋塚』に於いては
   駕を停めて、平家物語にまつわる袈裟御前の貞女を偲ぶ。
   夕方、都にぞ入る。この日は三条河原町に投宿3日間、京都に滞在する。
   生まれてはじめてみる京見物のための所要日数であろう。

廿3日(第8日目)
   朝ぼらけの都の宿を出立、京7口の一つ『栗田口』より、東海道に出て勢多の橋、
   草津宿をすぎ、相坂の関通過、文から思慮して宿泊は石辺に置く。

同廿4日(第九日目)
   暁(5更、4時)に出発。
   明け方は近くともまだ夜中の続きという時間帯にて空に残る下弦の月、初冬のわびしさ、
   養性院の侍女としての心象風景が2重写しに訴えて来る。
   紀行文を読む愉しさは、その土地が、未知であろうが既知であろうが旅人の見聞を
   追体験することでありましょう。
   また、文中の引用に依り、その引用者の心中を推し計る事のできる想像境をも楽しむ読者達。
   水口、土山を過ぎ、厳冬の鈴鹿の山路を越える。
   おそらく坂下宿に投宿したであろう(推量)

廿5日(第10日目)
   この日はなぜか真夜中に出発、松明かりの光をたよりに一歩ずつ、雪の夜明けを歩く。
   幻の世に行く心地す、故郷丸亀にはめずらしい風影である。
   巳の刻(10時)を過ぎる頃、雪は止み、太陽がはなやかに射し道も乾き喜び行く、
   申の刻(16時)過ぎる頃より桑名より乗船して海上7里をすぎて、子の刻(24時)に熱田宿に到着。
   (東海道中最大の繁昌を誇る宿場。宿場と城下町が遠く別々に発展した。
   現在は『宮の渡し公園』として整備され、石造りの常夜燈や、巨大な鐘楼が復元され、
   かつての様子を彷彿とさせる。)

廿6日(第11日目)
   以下一部から、鵲凍雲軒書く底本に依る

廿7日(第12日目)
   関所に到着
    「難波にて給はりし御しるし関所に奉りしに、わきあけたるを小女と書べき事をえしらで、
   ただ女とのみ書きて奉れり…」以下底本参照。
   記載事項に少しでも違いがあれば、通行不許可。
   脇の開いた振袖(現代の振袖とは異なり、元禄以前は袖の短いものである)着物を着た女は
   「小女」と書かなければならないところを, ただ「女」と書いてある為に通過できず、
   急遽、使者を立てて、大坂迄戻り再発行を待つ、新居の宿で6日間を空しく過す、出費は増すし、
   その上、大坂の町奉行が応じてくれるか否か、心細さに焦りのさまを生き生きと描く。
   心は揺れていても、文は盤石に据わる。
   江戸時代の女性の旅は、制限や限界が多く旅を自分で管理出来ない不満や不安を逆手に、
   誰一人として書かなかった通行拒否されたことを、皮肉にも利点として、
   明星の如き作品と成し輝き残した。(紀行文中の日付の不備も須磨明石の位置関係も薄れる。)

   今切関所で通女一行が不許可の理由とされた寛文元年の「女手形可書載覚」の別紙を添加しておく。

12月4日(第19日目)
   天竜川を船で渡る。
   感冒に浸され「物書事父のいさめければ筆もとらずなりぬ」行改えて、
   「為慰家親東武之製件々書記呈焉」と留てある。
   健康状態を損ね同行の父に執筆中止の勧告により擱筆。
   龍頭と胴体の一部で一貫性がなく、箱根関所の様子や果して無事に江戸藩邸に着く事が出来たであろうか。
   通女を招いた藩主京極高豊公の思惑は何かと、勝手な思いを敲かせ
   『江戸日記』(明治40年刊復刻本)を読む。

   天和2年(1682)通女が江戸に下りて2年目の9月12日から翌年2月朔日迄の、
   130日間の記録にしか過ぎない。
   江戸藩邸での8年間の全記録と誤解していたが、江戸での全期間の、わずかな5%しか過ぎないが、
   侍女として着任してまだ日の浅い頃の記録で、藩邸の生活が生き生きと、新鮮な眼で捉えており
   奉仕した内容や、江戸の大火に朝鮮通信使に関すること、故郷の家族への優しい心使い、
   敬虔な人柄が窺える。
   自作の和歌に簡単な詩書きを添えて日記執筆を始める。

   9月13日付け
     うき雲を千里にはらふ風なくは  今宵の月をいかでみましや


通女生誕の地に建つ銅像の基に、通女研究の先賢者近石先生の選歌の一首を思い出す。

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