国指定特別史跡 新居関所

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井上通女について知る

父・本固に英才教育を受け、和歌や漢詩、漢文を学んだ。
『素直さと真面目さ』という父の教えを貫き通し、
これに恵まれた資質が相乗して若いながらにも
その名を江戸にまで轟かせていた。

16歳の時
『処女賦』…未婚女性の心得
『深閨銘』…既婚女性としての自戒の文

を著書。
これが評価され22歳の時、江戸へ奥女中として招かれる。


井上通女旅の道中(その3)

人は時代に生かされるしかない。

時代には抗いようがない、この藩邸に勤める時代を栄養にして生き抜く控え目な女徳のある通女に、
天真爛漫な性格も日記の中に垣間見えて次第に、高豊公の意図する事柄が理解できるような気がする。

推挙の理由を想像すると、

一、養性院(亡父高和公の正室、藤原高虎孫娘)の侍女として公私の文書作成ができる人、
  お相手の役の勤まる教養のある人、詰まり古典に慣れ熟知しておる人。軽姫の教育含む。

一、江戸京極藩邸の中の侍女達の規律乱れ気味を正すことの出来る人。(公務放棄)

一、薬に対する知識を持つ人、取り扱いに信用ある人。
  総合的に観て、譜代の家臣の娘として十分に信任厚く、その上儒教精神の持ち主であるし、
  通女指名は当然と思う。

元禄2年(1689)に仕えていた養性院の逝去を機に、藩主に願い出す暇乞いが許される。
その帰郷の旅の様子を書き留めたものが『帰家日記』である。

さて、帰郷には避けられぬ、箱根と今切れの両関所越えが如何に綴られてあるのか、通女の場合は
8年前に手形書替えの経験もあり、大変興味を持ち両関所箇所を抜粋する。
(正徳6年、皇都書林、六角通御幸町西町、柳枝軒茨城信清 繍梓版を基にする。)


女のひざう(非常)をいましめ給ふなる箱根、今切二ところの關通すべきよしの御しるし、
きのふ益本に下し賜りぬ


とある。
この場合は留守居役から実弟宛に2通の手形が渡された。
箱根関所は、今切関所宛の書替手形を発行しない規則となっていたので、各関所宛の関所手形の
携行が義務つけられていたのである。

通女は箱根関所の女改めの様子に関して、次のごとくに叙述している。
さすがに関所の主任務が「入鉄砲と出女」におかれていただけに厳重な女改めが行われる。

改め婆により、髪を解かせ検察する。手形記載事項と相違なきかを確認する。

厳密な検査の結果、疑義の存在なしの場合通行が許可。
通女の場合も、その例にもれず、「奥たてゝ待つ」、奥から出て女改めをうける

「猶いかならんと胸つぶるゝ心ちしつる」

とあるように厳重な女改めをうけている。
又、「峠に至りて髪あげつ」とあるのは、女改めの際、髪を解かされているので、
通女は峠の茶屋で髪結女に結髪しなおしたことを述べている。

「出女」は武家に係わる女性の関所越えは厳重であった。
関所設置の目的が幕藩体制維持に直結する重大な問題であった事が窺われる。
関所通過には2重の恐怖と不安がともなう。

手形記載事項と女改めである。

17日(第7日目)通女の記するように新居宿をめざして、今切の渡しを舟にて渡る。
あら井宿に今切関所の存在を知り今切の地名を使い分けしている。

通女は今切関所の名が正しい事をも承知していた。
このことは、前項の出発に先立ち、

「箱根、今切二ところの関通すべきよしの御しるし」

とあることからも明瞭である。
元禄2年(1689)6月の女改めが無事に終わり、関所を通過でき緊張感が解けたかに
歌枕としての濱名の橋を詠む。

尚この復刻版には、今切関所の場面の挿絵がある。
柴桂子氏のご講話の中に「本格的な女改めは、幕府が譜代大名の妻子を、江戸へ引き移す
命令を出した寛永11年(1634)頃からで、東海道を通る江戸期の女たちの旅日記で最も早い
慶長7年(1602)に書かれた『東路記』にも、改めの事に就いては何も書かれていないし、
寛永10年(1633)の『高原院殿御道の記」にも女改めは書かれていない…」と印象深い話を伺う。