井上通女について知る
父・本固に英才教育を受け、和歌や漢詩、漢文を学んだ。
『素直さと真面目さ』という父の教えを貫き通し、
これに恵まれた資質が相乗して若いながらにも
その名を江戸にまで轟かせていた。
16歳の時
『処女賦』…未婚女性の心得
『深閨銘』…既婚女性としての自戒の文
を著書。
これが評価され22歳の時、江戸へ奥女中として招かれる。
井上通女旅の道中
旅衣あら井の関を越えかねて 袖によるなみ身をうらみつゝ
天和元年(1681)11月16日、一人の女性が讃岐国丸亀から江戸へ向け旅立った。
彼女の名は『井上通』、一般には『通女』といった。
丸亀藩士井上儀左衛門本固の長女に生まれ、幼女より父に学を受け、16、7歳ですでに
女性の理想を説いた『処女賦』、『深閨記』を執筆するほどの才女であった。
通女の才女ぶりは江戸でも評判だったようで、このため藩主京極高豊の母養性院に召されて
父とともに江戸へ下ることになったのである。
このとき彼女が記した日記『東海紀行』に収められているのが冒頭の歌である。
この歌は、通女が手形の不備で新居関所を通してもらえなかった心情を詠んだもので、
関所の取締りの厳しさを物語るものとして知られている。
難波にて給ハりし御しるし関所に奉りしに、わきあけたるを小女と書べき事をえしらで、
たゞ女とのミ書て奉れり、扨御しるしの言葉も、女とのミありけれバ、ゆるし給ハで、
むなしくもとのやどに帰ぬ
このとき通女は『脇明』という服装をしていたので、手形には『小女』と書かなければならないところ、
単に『女』とだけ書いてあったために通行を許されなかったのである。
このため再度関所手形を取得するため使者を向かわせる一方、一行はしかたなく新居の旅籠屋に
滞在し使者の帰りを待たなければならなかったのである。
通女の一行は12月3日、新しく取り直した手形で無事に新居関所を通る事を許された。
『東海紀行』には、 此度はたかふ所なければ、とく〈とゆるさる、いと嬉しく、
此程おもひくらしぬる、 こころひらけたる心地して、いそぎ渡守呼て船にのりぬ、風あらかりけれど、
ちかき渡りなれば、何ともおもハず、船よりあがりて、今宵は浜松に泊まりぬ、
とあり、通女の晴れ晴れしい心情が吐露されている。
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