関所の修復履歴3
先の建物礎石では、同心・下改勝手部分は礎石が2重になる時期を安政2年新規建替時の可能性を考えた。
仮にこの推定がただしければ、柵材が根太に転用されたのも安政2年新規建替時もしくは
それ以降ということになる。
発掘された柵材は大御門の柱基礎改修に伴って門柱堀立穴内に設置されたもので、
門柱堀立穴内に設置されたのは嘉永7年の地震で大御門柱が傾いた後の安政2年ごろ以降と推定されている。
嘉永7年地震によって建物のみならず関所周辺の柵も被害をかき集めて転用した姿が想起される。
大御門穴内の木材もさまざまな材で構成されているし、同心・下改勝手の根太材もさまざまな材が
用いられてらしい。
これらは同一時期の所作である可能性もあり、地震後の復旧の姿を示しているのかもしれない。
このように、同心・下改勝手の根太への柵材の転用は建物礎石と同様に安政2年の出来事である
可能性があるし、柵材の転用ということからおそくとも廃関となる明治2年頃のことで あるかもしれない。
かれこれ35年も前に刊行された解体修理工事報告書にみえる2点の事項について、
今気がついたことを記した。
はずした礎石をどのように据え付けたのか詳細はわからないし、同心・下改勝手の 根太転用材も
行方知れずである。
このような状況下では真相は藪のなかであるが、安政2寝年の面番所新規建替に伴って
関所構内でさまざまな改修が行われたいた可能性を考えてみた。
昭和46年の修理工事から35年という時を経ても、たどりついたのは推定事項ばかりであり、
確固たる史実を導くまでいたらなかった。
今後に期すべき継続課題である。
なお、出土した笹木土台付柵については杉浦政雄さん・箱崎和久さん・中田英史さんにご教示いただき、
文献史料は切池融さんにいろいろと教えていただきました。
まだまだわからないことばかりですが、今後とも”国内で唯一現存する関所建物”を考えていく
問題提起になれば幸いです。