関所の移転経緯
慶長5年(1600)に阿礼崎に創設したのであったが、元禄13年(1700)、
津波にあって200メートルあまり西方の、藤十郎山に移転した。
1.元禄13年、成瀬滝右衛門、佐野与八郎が奉行中に、関所はたびたび津波にあったので、2町余西へ移転したいと上司に申し出た。
1.元禄14年7月19日、関所の普請がはじまった。吉田城主の久世出雲守はこれに手伝って、
関所前の船着場の土凌をなし、新居藤十郎の付近に、幕府の小屋を建てた。
その面積は50間に90間で、竹で惣囲みをした。
そして、宝永4年(1707)、大地震にあって現在の場所に移築した。
その遭難の有様は、次のようであった。
・宝永4年、牧野大学が知行中、10月14日大地震が起こり、大波3度上って、関所の窓は破られ、
新居町人家も344戸潰れ、流失の舟は41艘、溺死者男女24人、舟渡しが中止したこと数日に及んだ。
その地震で番所はつぶれ、3メートルの怒濤が起ったので、関所番人らは、御条目の高札、印鑑、証文、
諸帳簿などの道具を堤の上に運んで避難した(「東海道新居関所研究資料」)
関所はこうした大災害をうけたので、翌年に今の所に移転した。
三度も移転した関所
慶長9年(1604)12月16日の大地震、津波で荒江が荒廃した。
海岸地帯の為、絶えず災害に見舞われながらも、95年過ぎた元禄12年(1699)8月15日
関所が置かれた荒江は大災害を受け、翌年ようやく藤十郎山(現・新居高付近)に
関所と城町が引越した。
元禄15年荒江宿と関所は吉田藩に管轄替えになり、
さらに8年目の宝永4年(1707)10月4日午後2時、 またもや大地震、津波に襲われて
宿場はほとんど全滅した。
当時の被害状況は、流失家屋241軒、倒壊家屋107軒、中破損家屋129軒、
小破損家屋378軒、 計855軒(注、元禄15年吉田藩に管理替の時は844軒だから
その後11軒増えた)。
水死19人、旅人死4人、怪我2人、計25人。 流出渡船40艘、破損渡船40艘、破損廻船8艘、
流出渡船35艘、破損漁船23艘、計145艘である。
しかしその年12月から源太山のふもと弥太郎新田へ、関所の工事が始まり、
翌年2月21日、関所が完成、4月から往還改を開始、宿場も一部出来上がった。
これだけ大災害を受けた宿場もすくないであろう。