関所の歴史
箱根関所は、天下の嶮といわれた箱根山におかれて、幕府の固めになったのである。
万丈の山が前に聳えるかと思うと、うしろには千仭の谷といった嶮岨の地であり、 一夫関に当れば、
万夫も聞きえないと歌われた険要の地点であった。
これに対して、同じ東海道で、浜名湖口の海上一里の今切を渡る新居におかれたのが 新居関所である。
箱根の関所と新居の関所とは山の関と海の関との差異こそあれ、ともに険要の地点を扼して、
幕府の政策をよく維持した点で類似している。
新居関所は徳川家康によって設けられ、被官の江馬氏がその奉行に任命され刑部の家を移転して、
それを番所とした。
箱根関所は元和4年(1618)の設置と推定されるので、 新居関所は箱根関所に約20年も先行しており、
家康が新居関所をとくに重要視したことがうかがえる。
この新居関所は、いつおかれたか。
『東海道新居関所研究資料』によると、 慶長5年に徳川家康は、はじめて新居関所を設けて、
江馬与右衛門を関所の奉行に任じた。
与右衛門は今川氏の家臣で、父は加賀守といった。
家康は岡崎城から浜松に入城する時、引佐峠を越えるに際し、油田村のあたり23ヶ村より、
野伏が起って家康にはむかった。 この時、浜名城兵の武士はそれを避けて井伊谷を通って浜松に入った。
この折に、与右衛門もそれに参加して功があったから、奉行職に任ぜられたのである。
関所は山崎村刑部右衛門の家を城町に移して、番所をしつらえ、これを守らせた。
これより続いて奉行職を置いたから、番所は次第に整備したという。
江馬氏が奉行になると、山崎村の庄屋であった刑部右衛門の家を城町、
すなわち半島が湖中に突出した阿礼崎を移築したのである。
江馬氏は奉行として、1290石の俸禄をうけ、早出村(浜松近辺)に住んでいた。
彼は慶長5年(1600)に関所を新設したが、元和4年(1618)ごろ、 紀州に転封になった。
同4年、彼の後任として奉行は2人になり、4000石の服部権太夫と、 1000石を食んだ服部杢之助が着任し、
ともに志都呂村に役邸を構えた。
二人ともこの地で奉行としての生涯を閉じた。
第3代の3000石の佐橋甚兵衛は橋本村に居住した。
第4代は承応元年(1652)、第5代は明暦3年(1657)と奉行は2人ずつ任命された。
第6代の寛文4年(1664)から奉行は1人になって、本田彦八郎が6000石という多額の 縁を食んで、
病死することになった。
同じく第7・8・910代いずれも奉行は一人ずつ任ぜられている。
元禄9年(1696)、11代目には、江戸幕府から、成瀬滝右衛門・佐野与八郎の、 二人が奉行となり、
新居町の金山下に役宅を営んだ。
しかるに、同15年(1702)、成瀬、佐野両氏は、奉行職を免ぜられて、 奉行はここに終わりをつげた。
この奉行に代わって、吉田(今の豊橋)城主が、家臣を派遣して、 新居関所を守固することになった。
奉行が管理した慶長5年から元禄15年までの、 102年間、新居関所は代官の管轄に属したが、 その後は吉田藩主の所管に移り、関所所在地の新居駅もまた吉田領に属したのである。